私が仏法の聴聞の場に初めて出向いたのは、30代に差し掛かる頃でした。当時、幼馴染を自死で失い、途方に暮れ、居ても立っても居られなかったのがきっかけでした。
初めて訪ねた場は、部屋いっぱいに聞法者が集まっており、皆で「正信偈」をお勤めし、静かに語る宗正元先生の姿があり、先生の話を熱心に聞く方々の姿がありました。その熱気に満ちた光景に、「このような場所があったのか」と驚かされたことを今でも鮮明に思い出します。
その場で先生がお聖教の言葉を語られる時、言葉そのものを説明するというものではなく、様々な表現をもって語ってくださるというものでありました。
その中でも心を打たれたのは、先生が『目連所問経』の、
たとえば万川長流に草木ありて、前は後を顧みず、後は前を顧みず、すべて大海に会するがごとし。世間もまたしかなり。豪貴富楽自在なることありといえども、ことごとく生老病死を勉るることを得ず。
(『真宗聖典』173頁)
という文を取り上げた後におっしゃった、「人生は途中。一生涯は途中である」という言葉でした。その言葉を聞いた私は、幼馴染の人生も、私の人生も途中であり、それまで人生とは人それぞれに終えていく、完結していくものだと思っていたので、そのスケールの大きさに驚かされました。またそれは深く長く広がった人間の歴史的な歩みということへの頷きであったのだと思います。
先生の語ってくださる言葉の中には、曽我量深、金子大榮、安田理深他数々の先生たちの言葉がありました。その中で気づかされたのは、先生の言葉は、ご自身が人生において聴聞してこられた諸師の言葉であり市井の方々の言葉でありました。そしてそれは先生の背景からの私たちへの呼びかけの言葉であります。歴史の叫び、苦悩の歴史の中で苦闘しながら現実を受け止めて生み出されてきた言葉であると、私は受け止めております。
しかし、私自身の日常に目を向けると、身に起こる問題に対し解決ばかりを求めています。結論を急ぎ、分かりやすさの中に自らを安心させてくれる答えをスマートフォンで探すのに必死です。先に受け止め頷いたことも虚しく、日常の中で私自身の安心が最優先です。安田先生は、このような在り方は現実を拒む姿なのだと教えてくださいます。
一方で目立たず、お聖教の言葉の理解の別を超え、身の現実に顔を上げ法と向き合う方々がいる情熱の場があります。そのことを知りながらも、そうした場になかなか足が向かない私に、安田先生は冒頭の法語に続けて言われます。
理性に立った人間が理性にいきづまる。現代自身が大きな危機にいる。法というものと遊離した社会、歴史的現実と離れた時に仏法は死んだのである。
(『聞思の人⑤安田理深集(上)』東本願寺出版)
私と仏法との距離について考えさせられます。そして、そのたびに「とにかく座っていればいい」という私の恩師・大島義男先生からの言葉が耳鳴りのように頭に響き、私を安眠させてくれません。この煩わしく思う耳鳴りこそ私に呼びかけてくる仏法なのかもしれません。
林 法真(はやし のりまさ)
1982年生まれ。東京教区長野2組西永寺衆徒
- 東本願寺出版(大谷派)発行『今日のことば』より転載
- ※ホームページ用に体裁を変更しております。
- ※本文の著作権は作者本人に属しております。